土曜日 4月5日

6時40分起床。曇。

昨夜は、大和で支店内の施設拠点事務方6人の飲み会がありました。普段は電話で連絡を取り合っているだけの、後は拠点の小口精算の折に支店窓口で顔を合わすだけの関係なのですが、事務処理的な問題では何かと助け合っているだけに、社内的にはもっとも近しい関係かも知れません。一拠点一人の事務方は、施設スタッフとは全く異なる業務内容ですし、孤独な作業も多いのです。それに、私が入社当時は“たかが電話番”待遇(時給は所謂最低賃金でしたし)でもありました。今でこそ“事務職”ですけれど、その分、要求される内容も高くなっています(当然、ですね)。それでも、賃金に見合っているか、と問われれば、かなり安いとは思います。

 

朝、勤務先に行き、ほんのちょっとだけ事務処理。

 

昨夜は帰宅後、エスビョルン・スヴェンソン・トリオ( E.S.T. )を流しっ放しにし、今日はアヴィシャイ・コーエン( Avishai Cohen )を流しっ放しです。スヴェンソンもコーエンも、私がジャズのレコードを聴いていた頃には、たぶん、ジャズの世界にはいなかった人たちだと思うのですが。・・・と、さて、“俳句”しなくっちゃ。先ずはメール句会の選句です。

 

三輪小春さんの『風の往路』が届き、「りいの」が届きました。

 

野矢茂樹著『大森荘蔵-哲学の見本』を読み終えました。読み終えた、という表現の意味に即することが嫌で、目を通し終えた、という表現を多く使ってきたのですが、結局は同じことなので、今後は素直に、読み終えた、を使うことにします。

さて、『大森荘蔵-哲学の見本』を読み終えての感想なのですが、やっぱり哲学は解らない、でした。この本で記憶に残った大森の言葉を一つ引いておきます。

「ヨウカンの切り口にはヨウカンはない。だから切り口をいくら集めても一片のヨウカンもできない。」

直線上には無数の点がありますが、その点を幾ら集めても、仮に無限個の点を集めたとしても、それが線になることは決してありません。これは、線と点の定義から明らかなことなのですが、ノートに線を引き、点を記していたりすると、まったく忘れがちな事実です。だから、どう、は、ここには記しません。野矢や大森にとっての哲学の問題も、私にとっては“単なる”俳句の問題に過ぎません。「ヨウカンの切り口」も、私にとっては正に俳句の上の問題なのですが、その中身は熟すまで待って戴く他はありません。